THE IKKYO TSUSHIN

知らない街。 - 銀座 -

大人の街、高級クラブ、ブランドショップ、鮨屋……。

「銀座」という響きのもたらす、どこか遠いイメージ。だが、それは銀座の一面しか表していない。

国立から銀座へ。往復1220円の約1時間、小旅行。 さあ、自分への投資を惜しまず文化人の通う街、そして一橋発祥の地ザギンへ出かけよう!

時代の流れと銀座の変遷

銀座という地名は、江戸幕府が銀貨鋳造所をこの地に置いたことに由来する。座とは、貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造した場のこと。銀座があるなら、金座も? そう。金貨を鋳造した金座は、今の日本銀行がある場所にあった。ほかに、枡座、秤座、朱座、などがあった。

明治2年、正式に銀座となったときの区域は銀座1丁目から4丁目までだけだった。現在の銀座8丁の広さと比べると1割にも満たない。銀座以外の9割の街区にも、南紺屋(みなみこんや)町、鎗屋(やりや)、弓町などそれぞれ由緒ある町名がつけられていた。その銀座の町並みには、3回の転機がある。

明 治 ~『ハイカラ』な銀座へ~

「銀座」といってたびたび思い起こされるものに、煉瓦街、柳、ガス灯などがある。これらは、明治5年の都市計画に由来したものだ。その年の大火で焼かれた街の再建のため、太政官が指示したのが「煉瓦建築」だった。その背景には、当時の不平等条約改正という政府の目論見がある。この都市計画は、同年に開通した日本初の鉄道とあいまって、ハイカラな舶来文化を銀座に与えるきっかけとなった。

大 正 ~銀座地域の完成~

大正12年には関東大震災が起こる。銀座全体は原型をとどめないほど一変し、その中に煉瓦街だけがたたずむ廃墟のような光景が広がった。政府が発した帝都復興の計画で、銀座も焼け残った煉瓦街すら一掃し、完全に生まれ変わることになる。銀座通りに沿って、1丁から4丁までだった銀座が8丁まで広がった。現在の銀座の形が完成したのは、このときだった。

昭 和 ~敗戦がもたらした変化~

第3の転機は昭和初期。日中戦争が始まり、銀座の商店にもその影がせまる。美しかった銀座通りが跡形もなくなり、4丁目にも防空壕が掘られた。残ったのは、6丁目の一部と7、8丁目のみ。空襲のため、銀座はほとんど死んでいた。しかし、空襲に耐えた鉄筋コンクリートのビルが戦後の銀座復興を早めることになる。

昭和20年8月15日、戦争が終わり、アメリカ軍が、ジープで東京に進駐してくる。日比谷の第一生命ビルにGHQ本部を置き、都内600カ所の建物を接収。銀座では服部時計店、次いで松屋がPXとして接収された。PXとは、米軍用語でポスト・エクスチェンジで、駐屯地内の売店のこと。日本一の商業の街・銀座の名門店が、米軍兵に物を売る売店になってしまった。

PXや将校用の食堂は、日本人は立ち入れない、無縁の場所だった。それでも米兵の存在は、銀座に商売を呼び戻すきっかけになった。キャバレー、ダンスホール、ビリヤード場など、焼け野原には不似合いな賑わいだった。

復 興 ~市民主導型の銀座へ~

戦後の銀座には、銀座商人の自力を物語る逸話がある。彼らは、敗戦の翌月に早くも復興計画を作りあげていたのだ。日本全国が混乱しているなか、さらに翌月には地鎮祭を執り行う。翌年の4月には銀座復興祭も開催し全国の復興の先陣を切るとともに、銀座商人の心意気を強烈に伝えたのだった。

ずっと行政主導だった銀座の都市計画。市民の手による街づくりは、この戦後復興を機に現在まで続いている。

銀座らしい銀座づくり

歴史ある街「銀座」。

しかし、銀座といえども都市開発による変革からは逃れられない。銀座の21世紀像を掴むため、「銀座街づくり会議」企画運営担当・竹沢えり子氏、「銀座西並木通り会」会長・谷善樹氏、「銀座金春通り会」会長・千谷俊夫氏の3人を訪問した。

「銀座は『面』として楽しむ街。大通りが1本あるだけの商店街と違い、銀座はどこを入っても商店街であり繁華街。ビルに入るだけで完結させないで、全体地図を見ながら歩いて『面』の楽しさを感じてほしい」と語る竹沢氏。

銀座の街づくりの取り組みは先進的だ。そもそもの原型は大正8年に発足された「銀座通り連合会」。最近では、グローバル化に耐えうる街を目指し「銀座まちづくりビジョン」が平成11年に作られた。平成13年には「全銀座会」、そして平成16年に「銀座街づくり会議」が発足した。

現在は大学とも連携している。建築や美術を専攻する学生が銀座を歩き、学生の視点から提案を行う。利害関係のない立場から意見・提案をもらい、銀座の街改善へ役立てている。昨年からは、行政も巻き込んだ取り組みも模索中だという。

「一方で、銀座はやはり大人の街。若者には、渋谷や原宿のようにぼんやりとその場にいるだけではなく、目的を持ち、文化を学び、文化を育てにきてほしい。若者がいること自体の必要性はないと思う」と竹沢氏は続ける。

ブティックの多い並木通りは、数年前歩道を広げた。「女性の美しさを引き立てるため」街路灯には特殊な電球をも使う。「インフラを整備するのはもちろんだが、それと同時に歩く豊かさを取り戻したかった。そのために、道を拡げ余分なものは取り去ろう。そういう思いがいまのような形になった」と谷氏は語る。

また、祭りを通した街づくりも盛んだ。江戸時代、能楽金春流の屋敷があった金春通りでは、毎年夏に通りの路上で「能楽金春祭り」が開かれる。「歴史上の名前がどんどん消える中、『路上で能を舞う』という金春宗家の一言で、通り全体が一致団結した。金春の名を残そうとした先達の意思を継ぎ、商売ぬきで銀座の文化のための催事を行いたい」と千谷氏は述べた。

時代の流れとともに変わる街、銀座。その街づくりの現場では「変えるべきところ」と「変えてはいけないところ」という伝統の本質が模索されていた。

銀座を歩く

銀座。昼はウィンドウショッピング、夜は大人の遊びとデートにいい街だ。吉祥寺~立川間のデートに飽きた倦怠期のカップルや、渋谷~池袋周辺の定番の遊びを好まない大学生、ちょっと派手にはしゃぎたい人など、多くの人に勧めてみたい。

昼、まずはショッピング。目移りはとまらない。三越、松坂屋、プランタン銀座、松屋のデパートから、シャネル、グッチ、ルイ・ヴィトン、エルメス等のブランドショップまで。歩き疲れて休むときは、高級喫茶店で愛想のない店員とマスター相手にクールな客を気取るといい。

疲れが取れたら趣向を変えて。越後屋、あずま屋、とらや、ミキモト、伊勢由などの老舗を巡る。品物に手は出なくとも、いいものに常に接していれば「分かる大人」への道も近い。変わり種なら、地方特産品の店もいい。職人たちの巧と、「銀座に店を出す」ことへの熱い誇りが、忘れかけていたノスタルジーを味わわせてくれる。

暇があるなら、松坂屋前の記念碑へ。そう、銀座は一橋誕生の地。一橋生なら一度は行ってみたい。

夜になると出てくる、この街最大の個性。髪を整え、ドレスや着物に身を包んだ女性や、眼光鋭い黒服の男性、ハイヤーに乗った厚ぼったい男性、腰の低そうなサラリーマン。彼らと同じステージにのぼるのは困難でも、チャンスはある。OB・OGや知り合いを上手につたえば、大学生でもこの街を一晩中味わえることだろう。

夜のデートコースなら、4丁目交差点付近よりも、1丁目京橋方面か8丁目新橋方面の店がお勧め。ソニー通り沿いには深夜まで営業しているバーも多く、ムードはそこで最高頂。ただただ甘い言葉を囁くもよし、銀座にまつわる豆知識を披露するもよし。

街にひそむほのかな灯りに直にふれる。人々と、その心を眺める。なにかが磨かれる、ひとときだ。

Copyright ©2005-2010 The Ikkyo Tsushin - Some Rights Reserved.
Last Updated: 2009-06-25T03:52:42+09:00 (Thu)