
第3回:ヒップホップ
ヒップホップ、それは黒人社会に生まれた音楽や芸術の総称だ。韻を踏んだ言葉をビートに乗せるラップ、巧みにレコードを操る DJ 、さらに落書きのようなグラフィティアートやブレイクダンスにいたるまで、そのカバーする領域は驚くほど広い。そんな中でヒップホップの世界を最初に知るならやはりラップだ。ちょっと不快? いやそれは誤解! 読んで深めようラップの理解、あなたも飛び込もうラップの世界!!
ラップの正式名称はフランス語から来た単語で RAPPORT という。【話し合うことでお互いが親密な関係になれる】というのが本来の意味だ。ラップのルーツには現在様々な見解が出ていてはっきりしないが、他と比較して考えると有力なのはおよそ三つに絞られる。
1920 年代、黒人達の間で色々な単語を違う言葉に置き換えて(例えば空 :SKY だと、 BLUE 等)早口で喋る言葉遊びが流行した。それは「JIVE」と呼ばれ、いかにセンスの良い言葉で早口でリズミカルに喋れるかが勝負であった。それを音楽のビートに合わせて歌うことでラップが生まれた。
60 年代ジャマイカのサウンドシステム界で、「ダブ」の父キング・タビーと組んでいた MC で U・ロイという人物がいた。彼はトラックのリズムに応じて巧みに言葉をのせていった。これがラップの原型だとして、後々「ゴッドファーザー・オブ・ラップ」と呼ばれるようになった。
ジャマイカ移民のクール・ハークはサウンドシステムを使ってサウスブロンクスでブロックパーティを行っていた。彼はレコードの二枚使いで一定のドラムやベースラインを何度も繰り返す「ブレイクビーツ」を編み出した。彼と組んでいたのがコーク・ラ・ロックだ。彼は曲中で曲目を紹介したり客を煽ったりしていた。彼のおかげで今でもラッパーが使う「To the beat y'all!!」といった掛け声が生まれた。
そうやってラップは誕生して音楽として確立していった。その中でラップミュージックがサイコーにご機嫌で活気に満ちていたのはやっぱりオールドスクールの時代。ライムも今のギャングスタラップみたいにおどろおどろしくなくて言葉遊びが多い。でも、今聴いてもカッコいい。次は、そんな魅力的なオールドスクールの時代を遡ってみよう。
| 74 年 | アフリカ・バンバータの“ズールーネーション”旗揚げ |
|---|---|
| 79 年 | シュガーヒル・ギャングの『RAPPER’S DELIGHT』が大ヒットし、200万枚のセールスを記録。カーティス・ブロウがマーキュリーレコードとラッパーとしては初のメジャー契約をして『Christmas Rappin’』でデビュー。グランド・マスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・5の『Super Rappin’』がリリース。 |
| 81 年 | トミーボーイレコードからアフリカ・バンバータ&ジャジー・5『JAZZY SENSATION』をリリース。 |
| 82 年 | アフリカ・バンバータ&ソニック・フォース『PLANET ROCK』をリリースした。映画『WILD STYLE』が公開され、US、EU、日本で大ヒット。 |
| 83 年 | RUN DMCが名曲『Sucker MC’s』と『it's Like That』をリリース。 |
| 84 年 | RUN DMCの1stアルバム『RUN DMC』をリリース。アフリカ・バンバータ&ジェイムズ・ブラウンの共作『UNITY』をリリース。LL Cool Jが『I NEED A BEAT』でデビュー。 |
グランド・ウィザード・セオドアはある日、出来心でレコードを前後してみたことで『スクラッチ』を発見した。あのよく耳にする“キュッキュッ”という音だ。そこからさらにスクラッチング技術を発展させたのがグランド・マスター・フラッシュ。 DJ たちが最もリスペクトする二人だ。
1984 年、 RUN DMC の RUN の兄、ラッセルシモンズは「Def Jam」レコードを立ち上げた。“ Our Artists Speak For Themselves(Cause They Can ’ t Sing) ―我々のアーティストたちは発言することで自己主張する(何故なら、彼らは歌えないからだ)、という彼の言葉は、後にこのレーベルのキャッチフレーズとなった。
弱冠 16 歳で Def Jam レコード第一弾アーティストとして契約した LL Cool J 。ちなみに“ LL ”は“ Ladies Love ”の略語で、甘いマスクがその由来だという。


| 83 年 | 映画『WILD STYLE』の日本公開。ヒップホップ文化が日本でも認知される。 |
|---|---|
| 84 年 | アイス‐T 出演の映画『ブレイクダンス』が公開。一気にブレイクダンスブーム。アフリカ・バンバータ来日。 |
| 85 年 | 作家いとうせいこうが初の日本語ラップシングル「業界くん物語」をリリース。DJ 藤原ヒロシと工藤昌之が活動開始。 |
| 86 年 | RUN DMC の『WALK THIS WAY』が大ヒット。アディダス人気が爆発。 |
| 87 年 | PRESIDENT BPM feat TINNIE PUNX の『HEAVY』がリリース。日本初のラップアルバム。 |
| 88 年 | “DJ UNDERGROUND No.1 CONTEST”が開催。後にスチャダラパーが選出される。 |
| 89 年 | いとうせいこう『MESS/AGE』がリリース。この年、米国ニュースクールのパブリック・エナミー、ジャングル・ブラザーズ、デ・ラ・ソウルが次々に来日。高木完がデ・ラ・ソウルのアルバムに参加。 |
| 90 年 | スチャダラパー『スチャダラ大作戦』をリリース。超大型クラブ“GOLD”がオープン。高木完などが活躍。 |
| 91 年 | B フレッシュ、ダブ・マスター X、ガス・ボーイズらが続々とレコードをリリース。DMC Japan 大会では DJ ヨシが優勝。 |

日本のヒップホップのオールドスクールとは一体どのようなものだったのだろう?それは 83 年公開の映画『WILD STYLE』によって幕を開け、次々にラップレコードがリリースされるようになる 91 年まで続く。その時期をまとめたのが以下の年表だ。
やがてオールドスクールがオリコントップ 10 インする楽曲へと接続する。それが、 1994 年の EAST END × YURI の『DA.YO.NE』。その頃の日本はラッパーを軽視して“ラッパーさん”と呼んで馬鹿にしているようなときだった。次第に、彼らはメインストリームから姿を消していった。日本語ラップはまたアンダーグラウンドの世界に戻り、水面下で着々と力をつけていったのである。
そして、そんな中から、あの奴らが満を持して出てきたのだ !!!!!
そう、なにを隠そう Dragon Ash!!!!!
1999 年、『Let yourself go Let myself go』がトップ 10 インして、トラックに巧に韻を踏んでいく Kj の日本語ラップに当時のティーンは魅了された。とにかく彼らはカッコ良かった ! 次の『Grateful Days』では ZEEBRA と ACO が、『Deep Impact』ではラッパ我リアがフィーチャーされ、日本語ラップの可能性に皆が興奮した。
今では無数のラッパーたちがメジャー契約を手にし、クラブでは彼らの曲が流れるようになった。トップ 10 インするラッパーは数多く現れ、 ZEEBRA に始まり、 RIP SLIME 、 KICK THE CAN CREW 、ケツメイシなど日本語ラップを影で支え続けてきた者達にも灯がともるようになっていった。
さらに、 Dragon Ash に続いて、スケボーキング、 RIZE 、山嵐、麻波 25 、オレンジレンジなどなどロックにラップを融合させたミクスチャーバンドにもスポットが当たるようになり、ヒットを飛ばすようになっている。