
ドライヤーの音で目を覚ました。洗面所をのぞくと、姉が熱心に髪の毛を乾かしていた。
「あっ、おはよう!なんか久しぶりじゃない?」
姉が呑気な声を上げる。
「久しぶりなのはユキ姉が帰ってこないからでしょ。朝っぱらからうるさいよ。まだ六時なんだけど」
「ごめんごめん、でもあと一時間くらいであんたがいつも起きる時間じゃん。ちょっとくらい許して」
姉は悪びれる様子も無くさらりとそう言ってのけると、ドライヤーを放り出し自分の部屋に入っていってしまった。私はため息をつきながらドライヤーをしまい、貴重な残り一時間あまりの睡眠を取るためにベッドへと戻った。
姉の由希と同居を始めて半年ほどになる。二つ年上の姉は高校を卒業した後、地元を離れて東京の女子大に入学した。特にやりたい勉強があったわけでは無いらしいのだが、姉に言わせれば「あんな何にも無いところで暮らしてたら、気付いたときには干からびてるに決まっている」のだそうだ。
ファッション誌を隅々まで熟読し、道の両側に田んぼが広がる環境には不似合いな流行の洋服を身にまとい、日々メイクの練習に余念がなかった姉は、地元ではちょっとした有名人だった。そして私はよく、姉妹でここまで違うものかと妙な感心のされ方をしたものだった。私だってきっとブスというわけではないのだろうが、垢抜けた姉に比べるとやはりずいぶんと見劣りがする。そのことがコンプレックスだった時期もあったが、最近ではもうそんな扱いにも慣れてしまった。
姉とは対照的に、私はおしゃれにも芸能界のゴシップにも男の子にも特に興味は無かった。これといった関心事もなければ趣味もない私は、ただお勉強が出来ることをとりえにしていた。そんなとりえが講じて、高三の担任から勧められた東京の大学に受かってしまった。
とは言え、姉妹を別々に東京で一人暮らしさせるほどの経済的余裕が我が家には無かった。そのため、私は姉と一緒に暮らすことになった。もともと姉とは仲が良く、何でも言い合える仲だったから、姉との暮らしを楽観視していた。
しかし、いざ同居を始めてみると、私がいない間は一体どうやって暮らしていたのだか不思議になるくらい、姉は家事が全くできない人だった。大抵、人が生活には必要と考える家事は何もかも徹底的に出来なかった。部屋はまるで空き巣にでも入られたような状態であった。
そんな状況を見かねた私が、部屋を大掃除して、冷蔵庫の中に煮物やらおひたしやらを作り置きしておくようになると、姉は手放しでそれを喜んだ。そんなに嬉しがってくれるならとそれが習慣化したのがいけなかったのだろう。今では姉は完全に私に家事を任せきり、しょっちゅう朝帰りをしてくるようになった。今日のように、明け方帰ってきてはやかましくシャワーを浴びて髪を乾かしベッドへ直行という日が、最近では週に二、三度はある。それでも姉を憎めないのは、彼女の笑顔がとても魅力的だからだった。「ごめんね、いつもありがとう」と言ってにっこりと微笑まれると、どうしても怒る気にはなれなくなってしまう。まったく、美人は得だよなぁ、とつくづく思う。
確かに何もできない姉が、私が地元から出てくるまで東京で一人生きてこられたのは、彼女の容姿と、それに惹かれる大勢のボーイフレンド達のおかげだった。彼らは姉を喜ばせるために、食事をご馳走し、様々なプレゼントをした。そういえば姉は以前、ルックスが良かったり、お金を持っていたりといった自分にとってメリットのある男以外と付き合うなんて、時間と労力の無駄でしか無いでしょと豪語していた。
しかし、そんなある日、夕方に学校から帰ってくると、姉は怒られた後の子どものような顔をして、床にへたり込んでいた。
「ちょっと、どうしたの」
私は慌てて駆け寄った。姉は私の存在にそのとき初めて気付いたかのように顔を上げて、そして突然ぼろぼろ泣き始めた。
「待って待って!今度は何?」
私はどうしていいか分からずオロオロしながら姉の背中を撫でた。しゃくりあげるたびに、そのほっそりした背中は大きく動いた。一体どうしてこの人はこんなに痩せているのだろう。自分の太い指を眺めて私はぼんやりと思った。
「私の何がいけないのよ……」
姉の声で私はふと現実に帰った。
「私の何がいけないの?どうして岡崎さんは私じゃ不満なのよっ!」
びっくりして私は何も言えなかった。いつも自信満々だった姉がこんな風に取り乱すなんて信じられなかった。
「えっと、オカザキさんに振られちゃったの?」
恐る恐る私は尋ねた。『オカザキさん』というのは姉が最近付き合っていた男の名前だ。最近の姉にしてはまじめにお付き合いをしていた方だった。
私の言葉を聞いた後、姉は何も言わずにただしゃくりあげるばかりだった。一体どうしてこんなにも姉はあの人に執着するのだろうか。
「まあ、あの人は残念だったけどさ、男はあの人だけじゃないじゃん。別にそんなにショックを受けなくても平気だよ」
私はとりあえず姉を慰めた。すると姉はいらいらとした様子で言い返した。
「それに、あの人と駄目になっちゃったら、私は大学も卒業なんてできないの」
「えっ?」
「あの人はねえ、ゼミの教授なのよ!」
また姉は泣き出した。私はただそんな泣くばかりの姉を見つめることしかできなかった。姉のゼミの教授というのは確か既婚者だったはずだ。
「なんでそんな人と付き合ってたの? 」
私は声を絞り出すようにしてそう言った。
「出生証明書なの」
「どういうこと?」
「それがあるから私はちゃんとここにいるって信じられるの。自分のアイデンティティーとかそういうものをきちんと証明できるのは、私の場合、そんなくだらないステイタスだけなのよ」
姉はそう言って、そのまま自分の部屋にこもってしまった。姉が荒々しく閉めた部屋のドアを私は呆然と見ていた。
私が自室に戻り、そのままベッドに倒れこんだのは、それからしばらくたった後のことだ。 ひどく疲れているのに、そのまま眠ってしまうこともできなかった。まとまらない考えが頭の中をぐるぐるとめぐり、いつまでも私は天井を見つめ続けた。 姉はいつからあんなに着飾るようになっていたのだろうか。いつからあんなに男と遊ぶようになったのだろうか。
そして、ふと思った。自分だって姉と変わらない。どうして高校時代に勉強をし続けたのだろう。どうして大学に毎日通っているのだろう。本当に学びたい学問なんて、実は何もないのに。
── 出生証明書なの ── 。姉の言葉が頭の中で何度も反芻された。私にとって〝自分のアイデンティティーとかそういうものをきちんと証明できるもの〟というのはどこにあるのだろう。ひどくいらいらした。そんなものが本当に必要なのだろうか?
私はカーテンを少し開けて外を眺めた。ほんの少し欠けた月が、夜空にぽっかりと浮かんでいた。私はそろそろと窓を開けてみた。ひんやりとした涼気が室内に滑り込んできて、T シャツから出ている肌を優しく撫でた。どこか遠くの方で車が走って行くエンジン音がした。虫の声でもしないかと思ったけれども、こんな都会じゃそんなものは聞こえなかった。
私は五本の指をそっと月の光にさらしてみた。青白い光の中で、指は奇妙にすべすべとして見えた。自分の手が自分のものじゃないみたいだった。だけど、確かにこれは自分の体の一部だ。私はその手で髪の毛を一本抜き、しっかりとその毛を握り締めた。ゆっくりと窓の外に手を伸ばして一本一本指を開いていくと、薬指まで開いたところで髪の毛がひらひらと飛んでいった。それはすぐに夜の闇にまぎれて見えなくなった。孫悟空の話みたいに、どこかでこの髪の毛から自分の分身が生まれるところを私は想像した。彼女の出生を証明できるものなんて何もないのに、私の分身はどうやって生きていくのだろう。窓を閉めながらそんなことを思った。カーテンを引く音がひどく大きく響いた。
その日、私はおかしな夢を見た。ドライヤーの音がするので洗面所を見てみると、私が髪の毛を乾かしていた。『なにやってるの?』と私が尋ねた。『髪の毛乾かしてるの』と私が答えた。『どっから来たの?』ともう一度私が尋ねた。『そんなのわからないよ』ともう一度私が答えた。『あなたは?』と私が尋ねてきた。『そんなのわからないよ』と私も答えた。鏡を見ると私が映っていた。そして気付くと私は一人で鏡の前に立っていた。
次の日の朝、何かが焦げるようなおかしな匂いが鼻をくすぐり目が覚めた。キッチンをのぞくと、その原因がわかった。姉がなにやら必死になって卵を焼いていた。
「ちょっと、何やってんの?」
「何って、見ればわかるでしょ。卵焼き作ってるのよ。ほら、できた」 おいしそうというにはいささか付きすぎた焦げ目を隠すように姉は皿にそれを盛った。
「食べてみて! ちょっと焦げちゃったけど、でも絶対おいしいから!」 「いきなりどうしたの?」
私はまだ夢を見ているのかもしれないと訝りながら尋ねた。
「私だってやればできるというところを見せようかと思って」
私は思わず吹き出した。
「ずいぶんポジティブじゃん。どうしたの?」
「たまにはね。いいでしょ別に」
「らしくないんじゃない? 失恋してこんな新しいこと始めちゃって」 私は笑いながら言った。
「別に私はやりたいことやってるだけだから。あーあ、今日から真面目に勉強しなきゃ」
姉はぶつぶつとぼやいた。
ここにあるじゃないか、と私は思った。
私は顔を洗いに行こうと歩き出しかけて、ふと
「ユキ姉の化粧品、今日貸してくれない?」
と、姉に声を掛けた。
姉は少し驚いたような顔をしてから、にっこりとあの魅力的な笑顔を浮かべて、
「いいよ、私がメイクレッスンしてあげる。どうせなら私の服も貸してあげるからさ、イメチェンしてみたら?」
とはしゃいだ。私も姉につられてにいっと笑い、そしてゆっくりと大きく頷いた。
「ほらっ、そうと決まったら早く顔洗っておいで」
姉が明るく言う。そして向き直った私の背中に
「でもどんなに綺麗になっても、不倫はやめときなさいよー」
とありがたいご忠告を浴びせかけた。私は声を上げて笑った。
なぜかは知らないけれど、とにかく今ここに自分はいる。だから、自分がどんな人間かなんて誰にも分からないなら、ただ頭でっかちに考えているよりは、行動を起こしてみる方がずっといいだろう。
こんなにわくわくした気分になったのはそういえば久しぶりだなと思いながら、私は洗面所に走っていった。
<内家あき乃>
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