
小さい頃から電車を眺めるのが好きだった。
家の近所に鉄橋があって、今よりずっと小さかった彼は、後ろから母親にお尻を支えてもらって、金網を両手でしっかとつかまり、額をその網に擦り付けるようにして前のめりになる。そのまま一時間も二時間も飽きもせず、線路のかなたからやってくる高速の長い長い物体をじっと眺めていた。どんなに母親が「もういいよね? もう帰ろうね?」と呼びかけてもそのときばかりは彼女の声は届いていなかった。
彼はそのときどんなことを考えていたのだろうか。
きっと不安だったのかもしれない。その鋼鉄のレールがどこまでも続いていって、もしかしたら、その先には人間が図ることのできない何か恐ろしい世界が待っているかのように、思えたのかもしれない。そして、そう考えたとき、
彼は、孤独になった。
だから、彼はその孤立感を払拭しようと、その先を確かめ続けたに違いない。だけど、今になってはもうよくわからないことだ。
* * *
自転車をこいでいた。一時間目の授業に30分以上の遅刻を覚悟しながら、時代遅れのカセットウォークマンを不相応なヘッドフォンで聴き流す。大学の門をくぐった頃に、『もう出席をとったよ』とクラスの女の子からメールをもらった。その瞬間、今日一日の授業が終わった。
「大学の勉強なんて会社じゃ何にも役に立たないぞ」
実家に帰ったとき、上の兄貴がそう言って母親にたしなめられていたのを思い出した。母親に反論するように、マクロやミクロやそんなもんが会社経営に役立つわけがないだろ、と豪語していた彼も大学時代を人より二年多く経験した。一番上の兄貴は、それを聞いて「でも、英語だけはきちんとやっておけよ。色々と使える場面があるし、そこで使えたら印象いいぞ」と言っていた彼は、今年の四月、北京に単身赴任した。そんな彼らを見ていると、特に勉強しなくても生きてはいけるような気がしてくる。
急に手持ち無沙汰になったため、とりあえず、生協近くのベンチに座ってタバコを吹かし始める。『今日はもう来ないの?』とまたクラスの女の子からメールが来た。ここ数日、その女の子からしきりにメールがくる。たぶん、彼女はもう知っているのだろう。
つい一週間前に、同棲していた女と別れた。
それは、とても彼女らしい別れ方だった。その日、彼女はバイト先に突然、電話をしてきた。店長ににらまれながら電話に出ると、彼女はいつも電話口でそうするように言った。
『あたし』
「なに?」
『男できちゃった』
「えっ?」
『別れましょ。あたしたち』
そう言って、電話が切れた。しばらく事態が飲み込めず呆然としていた。そして、持ち場に戻ると決められた労働時間に身を任せた。
家に帰ってみると、彼女の持ち物はすべて無くなっていた。それは下着から歯ブラシに至るまで。彼女が買ってきた彼女用のタンスも本棚も何もかもすべて。そして残されたのは、部屋にもともとあったステレオやテレビやベッドのみ。部屋が恐ろしく広くきれいに見えた。「置手紙ぐらいしていけよ」と言った独り言が、妙に広くなった部屋に小さく響いて消えていった。
そして、次の日からまた普通の毎日を過ごした。学校にたまに行って、出席を取ればその日のレジュメをいただいて、さっさと帰宅する。そして、インターネットを開いて無駄な情報の波に乗って、どこまでもどこまでも無生産な時の消費に勤しむ。その間にバイトがあればバイトに行く。ただここからが変わった。以前ならば、腹が減ったらいつの間にか飯ができていた。しかし、いまは腹が減れば自分で材料を買って作るしかない。作った後は、わびしく一人でテレビを見ながら消費する。
一通り寝る前の準備を行って、布団にもぐったとき、そこに入って初めて彼女のことを考える。全くもって無意味な問いを何度も何度も自分に問いかけ、またそこにいないはずの彼女に問いかける。決して答えなど期待してはいないはずなのに、解決できない問いを問わなければならなかった。そして、悶々としたまま眠りにつき、朝を迎える。
そうやって過ごした一週間。彼女からの連絡は完全に途絶え、こちらからの連絡もまたできないまま、終わっていった。そうして、クラスの女の子から頻繁にメールが来るようになった。大してかわいい子でもなく、そうかと言って、全く魅力のない子ではなかった。概して、どこにでもいる普通の子ではあったが、唯一つ違ったことといえば、彼女は、異常なほど映画に詳しかった。彼女に聞けば、どんな映画のどんなワンシーンも彼女の批判的な視点よって、的確な批評を聞きだすことができた。彼女は、誰よりもスタンリー・キューブリックを愛し、誰よりもスピルバーグを嫌悪した。そうした部分を知っているのは、彼女と非常に仲のよい間柄のごく少数の人物だけであったろう。大して学校に行っていない自分がその一人になれたのは名誉なことだと素直に思っている。たまにそういう話をメールのやり取りの中でするのが、単調な毎日の中で一番の楽しみでもあった。
* * *
持て余した暇を消費するため、タバコを吹かし続けていると、また、メールが来た。『サボったらだめじゃない。うしろ。』それを見て、後ろを振り返ると彼女がいた。「大してかわいくもないが映画に詳しい」彼女だ。
「いいわね。勉強ができる人は」
彼女はそう言うと、隣に座った。
「それは、あてつけ?」
「そうよ。授業に出てるのに大して成績もよくない私から、授業もろくに出てないのになぜか成績がいいあなたに、ね」
「それは、どうも」
「いえいえ。どういたしまして」
そして、相変わらずタバコを吹かす。彼女は、隣に座ってその煙の行方を見守る。そうしていると、彼女から突然、「変なこと聞いてもいいかな?」と切り出してきた。それが余りにも奇妙な言い方だったので思わず噴き出してしまった。それを見た彼女はじっとにらみつける。
「ごめん。気にしないで。続けて」
それを聞くと、彼女は釈然としないものの、話し始めた。
「他人の行動が急に全て読めてしまう瞬間ってないかしら?」
「それは、行動の文脈上で?」
「違うの。本当に何の前触れもなく、何の理由もなく、憶測でもなく、確実に彼が、彼女が、何かをやっている事実を知ってしまうということなの」
「よくわからないな」
「例えば、自分は家で料理をしていたとき、次の工程で必要な卵を出そうと冷蔵庫の扉を開けた。その瞬間、隣人が今、遠いどこかでタクシーを拾ったという鮮明な映像が頭に浮かんできたの」
「それは、思い過ごしじゃないのか?」
「でも、その一、二時間後に隣人はタクシーで帰ってきたわ」
「つまり、君は他人の現在の行動が読めると言いたいの?」
「簡単に言えばそうかしら」
「少なくとも今までそんな経験はしたことない。だから、君が神様でもない限り、それは理解に苦しむな」
「じゃあ、信じない?」
「そうだね」
そう言うと、タバコの火を消した。彼女は、「そう」と言ってから、また横顔を見せたまま、じっと何かを見つめていた。そうして何にもしないまま、一時間が過ぎたあたりで、彼女は映画に誘ってきた。
「だめ?」
「いや、いいけど。どうして?」
「えっ?何が?」
「どうして映画に一緒に行こうなんて思ったの。映画は一人で観るもんだて言ってなかった?」
「たまには気が変わるものよ。じゃあ、明日の朝10時に大学の前に」
そう言って彼女は帰っていった。
次の日の朝。いつも以上に早起きをした。久しぶりにこんな早い時間に大学にやってきた。こんな時間に大学生が大勢、動いていること自体、驚きだ。待ち合わせ場所に着いたとほぼ同時に彼女がやってきた。
「おはよう」
おそらくそれは彼女なりの最大限のオシャレだったのだろう。もうそろそろ夏が近いというのに、ロングブーツを窮屈そうに履き、それには明らかに不似合いな白いワンピースを身につけて、肩にはピンクのカーディガンを羽織り、青いテンガローハットを被っていた。そして、何より、何食わぬ顔でそれを着て立っている彼女が、何よりおかしくて仕方なかった。
「じゃあ、とりあえず図書館に行こうよ」
そういったのは彼女だ。
「何で?映画を見るんじゃないの」
「そうよ。行きましょ」
そういうと彼女はさっさとキャンパス内を歩き始めた。判然としないままとりあえず彼女の後ろをついていった。図書館に着くと、彼女は図書館の係員に何かを言ってから、また奥へ奥へと進んでいく。そして、彼女が突然、あるドアの前に立ち止まった。こちらに振り返ると、何かを指し示す。
〝グループ学習室A〟
そのドアの上の表札にはそう書いてあった。『ここで観るの?』とぼそぼそと彼女に言うと『そうよ』と彼女が応えた。
彼女に促されるまま、中に入ると、真っ暗な部屋の中に大きなスクリーンとそれに映し出すためのプロジェクターがおいてあった。
「今、大きな映画館に行っても名作に値するようなものはどうせ上映されてないし。ここで観たほうがよほどためになるわ」
彼女は、プロジェクターのセッティングをしながら、そう言った。
「でも、どうやって借りたの」
「簡単よ。ゼミで使うから貸してくれって言えば、学校はどこだってなんだって貸してくれるわよ。それに大抵、そう言えばなんでも許してくれるわ」
「うまいこと考えたね」
感心しながら彼女に言うと、「でしょ?」と得意げに言ってみせた。しばらくしてセッティングが終わると、彼女はスクリーンの前に立った。
「今から上映するのは、昔々、私が大学一年生のころ、サークルで作った映画です。素人にしては、映像のカットが優れているし、脚本もとても優れている、いい映画よ」
「で、その脚本・監督・演出をやったのは君だろ? 有名じゃないか」
「じゃあ、観たことあるの」
「ありがたいことに、これが初めてだね」
「よかった。じゃあ、観て。それから何か感想を言って」
「要望が多いな」
「四百字詰め原稿用紙四枚以上なんて言わないだけマシでしょ」
「たしかに」
彼女がスクリーンから退くと、すぐに映画が始まった。はじめに、雲ひとつない青空が映し出される。それは、完璧な空だった。完璧なまでに完成された青が画面全体に広がり、右から左へ米粒大のジャンボ機が通り過ぎていく。そして、次の場面になったとき、息を呑んだ。
小さな子どもが大人の女性にお尻を支えられながら、金網にしがみついて、眼下に伸びている線路をじっと見つめていた。彼女は、何度も子供に、もう帰ろうと呼びかけるが、子供は全く耳を貸そうとしなかった。
次の場面では、その子が大学生になって、ある若い女性と同棲してる場面になる。彼女と子供のころの話をしている。前の場面はその回想部分になっていた。次には彼女の浮気の場面が続き、彼らの関係が一本の電話で終わってしまう場面が描かれる。すると、彼の前に新しい女性が現れ、映画に誘われる場面になり、最後はある一室で映画を見せられる場面になって終わる。
最後まで観たとき、漠然とした恐怖にとらわれた。つかもうとしてもどうしてもつかみきれないもどかしさ。果てのない宇宙への寂寥感。その全てをかき混ぜた茫漠とした不協和音。いったい、何だったのだろう。何をいったい見て、何を読み取り、何を理解すればいいのだろう。終わりのないサークルをぐるぐるぐるぐると回り続け、この身が四方八方に倒壊していく錯覚を覚えた。そこは、まさに〝カオス世界〟であった。彼女は、プロジェクターの電源を切ると、隣に座った。
「感想は?」
ただ一言だけ彼女に伝えた。
「悲劇だね」
彼女はそれを聞くと、すぅっと微笑んで
「喜劇よ。完璧な、ね」
と言った。それを聞くと、また軽い眩暈をおぼえた。
〝唯一つ言えることはね。〟
彼女は、握っていた手をそっと包むようにして握りしめ、瞳の奥をじっと見つめる。
〝彼は、あなたは、こうなるようになっていた。それは避けられることではなかったのよ。そして、わたしたちはみんな、自分の意思などきかれない。なるがままになり、なされるがままになる。まさに、それこそ喜劇の名にふさわしいものよ〟
そう言うと、彼女は、頭を自分の胸に押し付けた。そして、しっかりと体を抱いた。眩暈が和らいでいき、次第に、心地よいものが体の中から湧き上がってくる。
〝一つだけ聞いていいかな?〟
〝なに?〟
〝どうしてこのラストシーンだけ描かなかったんだい?〟
〝完璧な、喜劇だからよ〟
そう言うと、彼女はボクに、キスをした。
(百済 梨)
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